「敬虔主義 そのルーツからの新しい発見」(デイル・ブラウン著、梅田與四男訳、キリスト新聞社)の読書感想を述べる。
著者のブラウン氏は新正統主義の雰囲気の中にいて、批判的に見られている敬虔主義について、自身の出身教団の同胞教会(the Church of the Brethren)が敬虔主義の起源を持っていることから関心を持ち、1962年に「敬虔主義における主観主義の問題-とくにフィリップ・ヤコブ・シュペーナーとアウグスト・ヘルマン・フランケの神学に関する新たな明確化」という博士論文を書かれたが、その後ベサニー神学校で奉職して来られ、多数の著書があるが本書はそのひとつである。
訳者の梅田師は日本聖契キリスト教団の秋津キリスト教会の牧師をされており、1992年にノースパーク神学校に留学され、そのとき著者の教えを受けられたとのことである。
本書は敬虔主義に向けられている誤解や批判を、敬虔主義の初期の指導者であったシュペーナーとフランケの主張に沿って修正しようとするものだが、彼らの著述が多数引用されていて、敬虔主義の長所および短所がよくわかる。
私は笹沖教会30周年記念集会で学んだ敬虔主義の伝統に関心を持ち、インターネットで検索していて本書を見つけて購入したものだが、シュペーナーやフランケ、またツィンツェンドルフのヘルンフートやモラビア教徒、ジョン・ウエスレーのメソディズムなどとの相互関係がよくわかった。さらにはチャールズ・フィニーやジョナサン・エドワーズなどにもドイツ敬虔主義の影響が広く及んでいることを知った。聖約教団のルーツであるスウェーデンのミッション・カベナント教会も登場する。
しかしキリスト教界では意外に敬虔主義は批判的に見られているという。「敬虔主義ということばは、感情主義、神秘主義、合理主義、主観主義、禁欲主義、静寂主義、神人協力説、千年王国説、道徳主義、律法主義、分派主義、個人主義、他界主義などと同一視され、否定的に用いられてきた」という。これは「敬虔主義者たちとともに-ありもしない天国のようなところに-いるよりは、教会とともに地獄にいるほうがましである」と言ったというカール・バルトの影響が大きかったようだ。
シュペーナーはルター派に身をおいたが、若いころストラスブールで学びその際ピューリタンの影響を受けたらしい。シュペーナーの特徴の小集会は当時その地で広く認められていたという。道徳的熱心、聖書主義、また「教会共同体は自分たちの牧師の選出に参与すべきであり、信徒と牧師はいずれも、教会会議に含められるべきである」とより民主的な教会政治形態などにカルビニズム的な特質も受け継いだということのようだ。さらにはスピリチュアリズムやアナバプテスト主義などの影響も受けているらしい。
シュペーナーは当時のスコラ主義的な教理体系に対し、『昔の単純さ』について語り、最も重要なのは、次の二つの教理であるとした。すなわち、「わたしたちの汚れと無能についての認識。そして神の御子キリストへの信仰であって、彼は真の人であり、私たちのために救いを実現し、私たちのために赦しと和解を獲得し、さらに私たちの新たな生活に力と刺激を与えた方であり、彼こそ、私たちの生活の基準また規範なのだ」と。また「哲学を通じて未信者を信仰の諸箇条に至らせようとする試みよりも、むしろキリストの功績と力とを個人的に知るように導くほうがはるかに良い。」そしてその先の教理は聖霊が教えるという。このように極めてシンプルかつ体験的な信仰を彼は主張した。その後の敬虔主義者たちはもっと主観的な聖書解釈に流れていったようだが、シュペーナーらは穏健な聖書解釈を行ったようだ。
そしてその場が小集会であった。シュペーナーは「敬虔な心の持ち主が集まり、聖書を読むとき、それぞれは慎みと愛をもって、神が聖書によって理解させてくださったことを他の人々の教化のために語るべきである。そうすれば、その考えていることは、他の人々の教化に役立つであろう」と言った。そのような帰納的な学びは聖書の理解を深める反面、主観主義へと通じることにもなった。
フランケはシュペーナーと親交を持ち、ハレ大学で牧師、神学者、そして聖書協会や慈善施設の創立者として働いた。そこでフランケは神学生をそうした様々な慈善施設で訓練したという。こうしてハレは国内宣教(社会的必要に対する働き)、海外宣教、ユダヤ人宣教、聖書や他の文献の普及、そして多くの若い人々による世界への敬虔主義の発信基地になったという。
ツィンツェンドルフはフランケの教育施設で学んだ。そしてヤン・フスの流れを汲むボヘミア兄弟団の残存者とヘルンフートを建設した。ドイツ敬虔主義とそのような関わりがあったが、ヤン・フスが敬虔主義の直接の源流というわけではないようだ。その流れを汲むモラビア兄弟団とジョン・ウエスレーが出会い、メソジスト運動となっていった。
シュペーナーやフランケは、『譲ることのできない事柄においては真理を、譲ることのできる事柄においては自由を、あらゆる事柄において愛を』という宗教的自由の尊重と寛容さがあった。これらは今もスウェーデン聖約教会に色濃く残っている特徴である。彼らは信条に敬意を払ったが、当時の正統派が信条を聖書とほとんど同等の権威を持たせたのに対し、信条は聖書と一致している限りにおいて正しいとした。
敬虔主義の特徴として再生を重視することがあり、その結果行いを重視する傾向がある。シュペーナーは「キリスト教の骨子は、・・・悔い改め、信仰、そして新たな従順である」と言ったが、彼は「律法的従順と福音的従順を明確に区別しようとした。前者は律法から生じ、後者は信仰と神の愛から生じる。律法的従順は人間そのものの力と努力に由来しており、福音的従順は信仰と御霊の力に由来している」という。すなわち信仰者の行いは内なる人、すなわち内的な再生の現れであり、「善い行いとは真の信仰のしるし」に他ならなかった。そのように彼らの主張は極めて福音的なものであったが、行いの重視は、容易に形だけの敬虔、律法主義へと変質し得るものでもあった。
このように敬虔主義は、聖書の重視、個人的回心の重視、宗教的自由の尊重、小集会での聖書研究、民主的な教会観、聖霊の力の重視などの特長を有している。その反面、主観的な信仰に偏りやすい、外部からの教えに影響されやすい、霊的な高慢に陥りやすい、律法主義になりやすいなどの短所があることがわかる。
本書を読んで、自分たちの信仰の中に、特に教えられたわけではないのに、敬虔主義の霊性の伝統が色濃く存在していることに気づかされる。これも時代を超えて継承された聖霊のわざなのであろう。敬虔主義の持つ短所に注意しつつ、その長所を生かしてその働きを伝えて行きたいと思わされた。
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