8月6日広島で起きたこと
先週の金曜日に会社が休みだったので、スウェーデン人の宣教師のT師と広島に行った。平和公園の原爆資料館に行くと、8月6日の原爆記念日に備えて式典会場作りが始まっていた。

中学生のときに長崎の原爆資料館を見たが、そのときは惨たらしさの印象しかなかったが、今回展示を見て、1945年8月6日8時15分に何が起こったのかがよくわかった。
アメリカはアインシュタインら科学者の助言を入れ、原爆の効果を正確に知るために、原爆投下前まで広島には通常爆弾による爆撃を行わなかったという。エノラ・ゲイが原爆を投下した際には、温度などを測定するためのいくつかの機器がパラシュートで投下されたと記されていた。つまりこの原爆投下は原爆の破壊力と与え得る損害を評価するための実験であったのだ。
別の日のニュース番組で、原爆投下されたとき空襲警報が発令されず、もし防空壕に人々が避難していれば犠牲者の数は大幅に減っただろうが、米軍機は一度広島上空を旋回して東に抜けて、その後急遽反転して再度広島に引き返し原爆を投下したために警戒警報を出すことができなかった疑惑があるとの報道を見たが、上記のことを考えればさもありなんと思われる。もしそれが事実であれば広島市民はいわば生体実験材料にされたということになる。
原爆投下から64年になるが、戦争の悲惨さだけではなく、人間の政治や科学技術などこの世の原理の冷酷さや罪(国を問わず)の深さを思わせられる。そして大人も子供も人々のそれぞれの人生を一瞬にして滅ぼされてしまったことに深い悲しみを感じた。
キリストはわたしたちのこの罪のために十字架で死に、よみがえり、それを信じる者に、この世の原理ではない、互いに愛し合う新しい心を与えられた。その実例をわたしたちは見ることができる。これが福音の本質なのだと思う。しかし同時にわたしたちはこの世の原理に巻き込まれて罪を犯してしまうことも事実である。キリストが再臨され私たちも完全な者に変えられることを望むばかりである。それまでわたしたちは自分の十字架を負い、キリストに似た者に日々新たにされるという約束を信じて歩むほかないのだろう。
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