キリスト者の努力
デボーションで第2ペテロを読んでいて、キリスト者の努力ということについての黙想より。
「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(新改訳2ペテロ1:5~7)
Jバイブルで「努力」で検索すると7件(ヨナ3:10、ルカ13:24、ヨハネ19:12、ローマ9:16、ピリピ2:16、2ペテロ1:5、ユダ1:3)ヒットし、その一つがこの聖句である。ちなみに「恵み」で検索すると369件も出てくる。キリスト教がいかに恵みに満ちたものであるかを象徴していると言えよう。しかし7件しかないが「努力」ということばも聖書にはあり、中でもキリスト者への努力の勧めが書かれているのは、上記第2ペテロとルカの「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。」の2か所である。そしてペテロがキリスト者に対して努力目標として掲げているのは、福音宣教や伝道や奉仕ではなく、「信仰、徳、 知識、自制、忍耐、兄弟愛、愛」といった霊性に関する項目であることは興味深い。一方、ルカではイエスが努力して「狭い門」から入るように命じておられる。
そのキリスト者の努力すべきことは、よく読んでみると普通私たちがイメージする努力の内容とは少し異なっている。まじめな求道者にありがちなことだが、クリスチャンになると、良いクリスチャンになろうと一生懸命奉仕をしようとして努力し、疲れてしまったり、逆になぜ他の人は熱心でないのかとつぶやいたりする姿を見ることがある。これは実は私たちが長年持ってきた肉の持つ悲しい性質なのだと思う。
ところで私たちキリスト者のこの世での存在目的は何かというと、同じペテロは第1の手紙で「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(新改訳第1ペテロ2:9)と述べており、福音の宣教であることは明らかである。
ではこれらをどう理解すればよいのだろうか。それはおそらくペテロの続くことばに鍵があると思う。
「これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。」(新改訳2ペテロ1:8)
これらの霊性が私たちに備わるなら、実を結ぶ者となる、すなわち福音宣教の使命も主イエス・キリストを知ることによって果たされていくということではないか。逆にそれが備わっていない場合についてペテロは「これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。」(新改訳2ペテロ1:9)と厳しく戒めている。
フランシス・シェーファーが「真に霊的であること」の中で、私たちが積極的な実を結ぶためには、私たちが瞬間瞬間すべての物事に対して死ぬことがまず必要だという。そしてその後初めて私の内に生きておられるよみがえり栄化されたキリストが実を結ばれるのだといい、これを「能動的受動性」と述べているが、私たちが福音宣教の実を結ぶためには、肉の努力で実を結ぼうとするのでもなく、華々しい賜物によるのでもなく、回り道のように見えても、私たちの霊性を変革するようにまず努力すべきだということなのだろう。
ペテロは続く14節では「私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。」と、自分の死が近いことを予期し、いわば遺言のように書いた手紙であり、その冒頭に、信徒たちに最重要なこととして、「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられるのです。ですから、すでにこれらのことを知っており、現に持っている真理に堅く立っているあなたがたであるとはいえ、私はいつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとするのです。私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。」(1:10~13)と述べて、「信仰、徳、 知識、自制、忍耐、兄弟愛、愛」を備えるよう努力せよと言い残しているものと思われる。
パウロもピリピ人への手紙の中で、自分は熱心なユダヤ教徒として人間的なものを頼みにしていたが、キリストを知った今はそれらはちりあくただと言い、「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」(新改訳ピリピ3:10)とひたむきにそれを得ようと一心に走っているのだと述べている。これもシェーファーのいう能動的受動性を得るための努力であると理解できる。霊性(being)を建て上げるための努力(doingというよりむしろknowing)であり、その結果、伝道や奉仕などの実(doing)が生み出されるということではないかと思う。そして、このことを信徒に思い起こさせ、奮い立たせることが自分のなすべきことであるとペテロは述べている。私たちも教会の中で、相互牧会において目指すべき方向について示された思いがする。
では具体的には私たちはどう努力すればよいのだろうか。1:2~3には「神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。」とあり、「神と私たちの主イエスを知ることによって」、「お召しになった方を私たちが知ったことによって」と述べられており、神とイエスを「知る」ことがすべてを与えるペテロは語っている。
一方、パウロはコロサイ書で「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。」(1:28~2:2)と「キリストを真に知る」ことを最重要なことと述べ、続く3章で具体的な日常生活における指針が列挙されている。
「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」(新改訳コロサイ人への手紙3:12~23)
このような信仰生活の中で、「あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」(コロサイ3:9)というように私たちの霊性が形造られていくということなのだろう。
そしてこのように私たちの霊性を変革され、福音宣教の力を与えられるのは御霊にほかならない。聖霊に満たされることを求め、その導きに従って歩みたい。
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(新改訳第2コリント3:18 )
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(新改訳使徒の働き1:8)
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