倉敷市民クリスマス
今日は倉敷芸文館で倉敷市民クリスマスの催しがあった。これは倉敷市内のプロテスタント教会が毎年合同で行う行事で、今年は合同聖歌隊が編成されクリスマスキャロルを賛美した。ゲストは元アイルランドのテロリストだったヒュー・ブラウン師だった。ブラウン先生はご自分の経験を生々しく語ってくださり、その中で神との出会いを体験した切り口から、福音というものの本質をわかりやすく伝えてくださった。
先生はクリスマスにあたり、聖書のキリストの誕生を御使いが羊飼いに告げる場面で、「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(新改訳ルカ2:14)を引用された。
北アイルランド紛争は、日本では宗教紛争のように思われているが、実態は彼らは一人として自分をクリスチャンと言わず、教会にも近づかない。この争いは領土紛争であり、民族紛争である。イギリス人とアイルランド人のそれぞれにテロ組織があり、お互いに報復合戦を行っており、実のところ暴力団の抗争と変わりがないものだと話された。子供たちは彼らは自分たちを守ってくれる英雄と思い組織に入るが、先生も2ヶ月でそれとは全く違うものとわかったが、そこから抜けることは死を意味し、抗争の中でテロリストとして憎み合い殺し合う世界に深入りしていくことになる。
この生き方は実は生まれつきの人間の生き方、すなわち自分を中心として生きる生き方の行きつく先の姿なのだ。そこでは人と人の間の相対的な価値観しかない。紛争地域でない日本でも、いのちを軽んじて興味本位で人を殺す者や、逆に肉親を殺された犯罪被害者は犯人への復讐心に燃え、できれば自分の手で犯人を殺害したい思いにかられている姿がある。
そんな中、先生は警察に捕らえられ、暇つぶしに映画ベン・ハーを見た時、「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(新改訳第1ペテロ2:22~24)という聖書のことばから、突然、人に対する罪でなく、神に対する罪を犯していたことに気付かされる体験をする。そしてキリストを十字架にかけたのは自分にほかならないことに気付く。
生まれつきの私たちは、自分が自分の生き方を自由に決めて人生を送っているが、それは神を知らず、羊のようにさまよい、他人との相対的な人間関係の中だけで利害を調整しながら生きており、本質的に利己的なものであり、その行き着くところは不満や敵意や殺意なのである。先生はそのときこの人間の持つ根本的な罪を啓示によって知ったのだった。
そしてそれから2週間にわたり聖書を読むが、自分の罪はわかったが、キリストが十字架で死に三日目によみがえったことが信じられず、自分がクリスチャンと言えるのか悩むが、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(新改訳ガラテヤ2:20)という聖書のことばに出会い、自分の内にキリストが生きていることを確信し、それまでに経験したことのない平安と喜びを感じ、聖書を読んでいた小屋から帰る時、まるで空中を歩いているように感じたという。
先生はこの体験を通じて、神との平和、和解を経験し、その結果、これまで殺したいほどに憎んでいた人を赦すことができるようになったという。そして「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」(新改訳マタイ5:9)とある通り、平和をつくる者、神のこどもとなったのである。北アイルランドではイギリス、アイルランド双方のテロ組織の中に300人ほどの同様な経験をした人がおり、それがアイルランド紛争の終焉に貢献したとのことだ。
冒頭のキリストの降誕のときの御使いの賛美の「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」ということばの深い意味を教えられて感謝だった。わたしたちの信じているキリストの福音の豊かさをうかがい知る良い機会となった。
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