2009年5月 5日 (火)

Victory2009笹沖教会「のぞみ」

Vicroty2009のゴスペルジャンボリーの笹沖教会の今年の賛美はTima Sheiakh師の日本語オリジナル「のぞみ」でした。Tima師は昨年夏にスウェーデンから来日し日本語の学びをされていますが、旧約聖書詩篇25編から初めての日本語の賛美を作られました。

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2009年4月30日 (木)

Victory2009

4月29日に水島サロンで賛美集会Victory2009が行われた。 午前のゴスペルジャンボリーは14チームが参加し音楽やダンスの賛美が披露されたが、笹沖教会は今回はスウェーデン人のT宣教師の日本語のオリジナル「のぞみ」を賛美した。T師は昨年の8月に来日されて日本語の勉強をしているが、短期間に日本語の賛美まで作れるまでに上達された。

Hura Atsumi

午後の本大会では講師はインドネシア宣教師として働かれた安海靖郎師がメッセンンジャーで、「強められる」というテーマで説教をされた。安海師はインドネシアでの宣教経験から、日本のクリスチャン人口1%の壁を打破するのに必要なものはリバイバルであること。そして安海師がインドネシアで経験したリバイバルは、神の主権による働きであり、そこに罪の悔い改めが起こり、聖霊による特別な働きが起こり、それが燎原の火のように広がって行き、インドネシアはイスラムの国であったのにクリスチャン人口が20%になったのを目の当たりにされたことを証しされた。 このようなリバイバルが起こるためにはクリスチャンが強められなければならないが、そのためには私たちの孤独感を紛らわせるこの世の誘惑、テレビや携帯やネットなどから離れて、神に向かう時間を聖別すること、私たちの感情や欲望を攻撃し私たちを罪に誘惑し、それを訴える悪魔にキリストの十字架で立ち向かうこと。そして私たちの持つ高ぶりを悔い改めて、へりくだって主のリバイバルの到来を祈ることが必要と教えられた。そのためにひざまずいて祈ることを勧められた。
特に日本の教会の問題はこの高ぶりにあることを示された思いがする。私たちは自分たちの信仰のあり方にプライドを持っていて、神さまの働きを自分たちの持つ枠の中に押し込めたり、互いに他の教派を排除したりしがちだが、これは結局この世の人のように自分たちは他の人たちより優れている(いたい)と思っていることが根底にある。私たちの中にも権力欲や苦いねたみや競争心がないといえば嘘になる。しかし私たちは取税人とパリサイ人のたとえ話のように、自分を正当化せず、そのような者であることを素直に認めて、へりくだって主のリバイバルの到来を祈り求めて行きたいと思わされた。

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2008年12月28日 (日)

長周期地震と免震構造

12月26日の朝日新聞1面に「長周期『免震』内部は大揺れ」という見出しで、三木市にある巨大振動台E-ディフェンスで行われた、病院を模した4階建て鉄筋コンクリート建物を、南海・東南海地震で名古屋で発生すると予想される、いわゆる長周期地震波で加振する実験が行われ、入力波の最大加速度217ガルに対し、免震建物上では約240ガルの加速度が観測された。

建物自体は被害はなかったが、内部の固定されていない医療機器は最大3m移動した。この結果、免震建物でも医療機器が転倒するおそれがあるが、キャスターなどを固定すれば移動量は10cm以内であったという。記事には加振実験後の手術室内の写真が載せられており、人工心肺装置や照明灯が移動した様子が示されていた。この結果を受けて、実験を主催した防災科学技術研究所は、医療機器の固定など病院の地震対策を定めた指針作りを検討するとのことだ。

よく読むと免震構造の固有周期と共振する長周期地震を受けても、免震建物は主体構造は被害を受けず、内部の機器も、キャスターなどを固定すれば安全であるということなのだが、記事を一読すると、免震構造は長周期地震に対して揺れが増幅して危険であるような印象を受ける。加速度は確かに増幅しているが約1割程度であり、ダンパーでよく共振が抑えられていると思う。免震は長周期地震に対してはむしろ制振として作用するようだ。つまり地震の卓越周期が免震建物の固有周期と一致しても共振して大きく増幅することはないということだ。同じ紙面に超高層ビルの長周期地震対策として制振が導入されていることが書かれていたが、制振の場合はほぼ各階にダンパーを取り付ける必要があるのに対し、免震の場合は免震層に集中的にダンパーを設けて共振による揺れの増幅を抑えるものと考えることができる。

以前、東京理科大の北村教授が長周期地震に対する免震建物の性状について、免震建物はダンパーが効くので共振は抑えられるが、従来の耐震構造の超高層ビルは最上階で最大2m程度の揺れが予想されるのでダンパーを追加するなどして制振する必要があると言われているのを聞いたが、その通りの実験結果だったようだ。

実際の免震病院を想定した実験で、長周期地震に対してキャスターの付いた設備はフリーだとかなり移動したが、ロックしたものは移動は10cm程度以内で装置の転倒などもなかったようなので、長周期地震に対して不利と言われる免震建物もそういう点を配慮すれば大きな問題はないということが確認されたというのが記事の最後にある、国立保健医療科学院の施設科学部長の「実験で、免震ではキャスターの固定でも大きな効果があることがわかった。」というコメントなのだろう。

問題の長周期性大地震は、南海地震や東南海地震などのエネルギーが大きく遠距離で起こる海溝性巨大地震により伝わる地震波が大阪平野や濃尾平野などの堆積層の厚いすり鉢状の地下構造を持つ平野部で生ずる現象だが、大多数の地震は阪神大震災や関東大震災などと同じく活断層による短周期成分の卓越した直下型地震であり、それらに対しては免震構造は十分な性能を発揮するはずだ。その他記事には書かれていないが、最大応答変位や繰り返し変形による免震部材の特性変化なども気になるが、いずれにせよ実験報告書がまとまれば長周期地震に対する免震構造の技術的評価が明確になるはずだ。

朝日新聞の記事はあたかも免震は効果がないような印象を一般に与えかねない表現で、どんなものかと思う。こと科学技術に関することは正確に書いて欲しいものだ。

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2008年9月23日 (火)

初めの愛

「エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。 「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」(新改訳ヨハネの黙示録2:1-5)

先日、水島サロンで聖約教団のコンベンションが行われた。今回は講師にクリストファー・サン師を迎えて、若者による賛美やゴスペルフラなどが披露された。

Band Hula San

クリストファー・サン師は台湾系アメリカ人で、もともとアメリカのカリフォルニアで建築士をしていたが、25年前に召命を受け伝道者になった。そしてアジアやアフリカ、ロシアなど多くの国々でサッカースタジアムなどで大規模な野外集会を行っている人で、来年は岡山で大規模な伝道集会を計画している(http://www.christophersun.org/en/home/index.html)。

サン師は伝道者と聞いていたので修養会でどんなメッセージをされるのか興味を持っていたが、力強い語り口は伝道者そのものだったが、内容は極めて深いもので感銘を受けた。ヨハネの黙示録の2章から、7つの教会へのメッセージの解き明かしをされた。7つの教会は、教会史の中の各時代の教会を象徴していると言われていると語られた。

その中で強く印象に残ったのは、最初のエペソの教会へのメッセージだった。エペソの教会は忍耐強く、また間違った教えを見破り、正統な教理を守ったが、イエスによって非難される。それは教会がイエスに対する「初めの愛」を失ってしまったからだった。教会はキリストの花嫁であり、もし愛を失ったら夫婦として成り立たなくなってしまう。イエスは悔い改めを求められ、「悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう」とまで言われる。それほどにイエスは私たちの愛を求めておられるのだ。

マルタはイエスをもてなすためにかいがいしく働いた。一方マリアはイエスの足元で聞き入っていた。イエスは、マリアに何とか言ってくれというマルタに「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(新改訳ルカ10:41-42)と言われた。

私たち教会はイエスを夫として愛しているだろうか。イエスよりも他のものを愛していないだろうか。私たちもいつのまにかイエスへの愛よりも、伝道や奉仕や教勢や財政などに心が捕らわれていないだろうか。もしそうなら「どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい」とイエスは言われる。

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2008年8月16日 (土)

国家主義の虚構

昨日は終戦記念日だった。東京の靖国神社には15万人の参拝者があったという。北京オリンピック開催中ということと、福田首相は靖国参拝を行わなかったことから、「神の国」発言や憲法改正を唱えた安倍前首相のときの昨年に比べるとあまりマスコミでも話題にもならなかったようだ。

昨夜、オリンピックの女子サッカーと同じ時間に放映されたNHKスペシャルで、「果てなき消耗戦 証言記録 レイテ決戦」という番組が放映された。これは太平洋戦争の一大転換点となったレイテ決戦の当時を知る日本、アメリカ、フィリピンの生存者の証言と当時の記録を集めたものだ。

昭和19年秋、戦局は悪化し、太平洋においてアメリカ軍の反攻が進みつつあった。そんな中、台湾沖海戦で日本海軍が空母11隻をはじめとするアメリカの艦隊を撃破したというデマ情報を真に受けた大本営発表で日本は油断しきっていた。そんなときレイテ島沖におびただしいアメリカの艦船が現れ、激しい集中砲火でレイテ島に上陸し、日本軍守備隊は壊滅的な被害を受けた。ところがその情報は日本本土に正しく伝わらず、大本営はアメリカ軍は台湾沖で壊滅的被害を受けた残存勢力と考え、1個師団を補給体制もないままに送り込む。現地に着いた部隊は、退却してくる日本軍に遭遇し事態の重大さに気付く。

物資、戦力で圧倒する米軍に日本軍は制圧され、補給を絶たれ、食料もなく兵士は倒れていく、特にリモン峠での戦いは悲惨であった。周りには累々と屍が横たわる中消耗戦が続く。日本軍は命令により退却は許されず、弾薬もなく、絶望的な斬り込み攻撃をかけて戦死していく。日米双方の兵士はお互いに、戦友を殺された復讐心に燃えて憎しみを増していく。

ある日本軍元兵士は、部隊を守るため軍命にそむいて部隊を退却させた大隊長が、上官から命令違反をとがめられ、部隊を引き連れて再突撃を命じられるが、大隊長は部隊をおいて一人で突入し戦死した話を涙を流しながら話されていた。追い詰められた日本軍はレイテ島からセブ島に転進(退却)する。しかし1万人の将兵に対して渡るための船は4隻しかなく、戦闘可能な900人だけが渡り、残りは自活してレイテ島死守を命じられる。

日本軍は食料を現地のフィリピン人から奪い、ゲリラの疑いをかけたフィリピン人を拷問し、情報が漏れないように殺害する。こうして憎しみの連鎖はますます高まり、日本軍は孤立し、山中に立てこもり赤痢や餓えで倒れていく。昨年、フィリピンに旅行する機会があり、今もフィリピンの人々の間には日本に対する憎しみが残っていることを感じたが、こういう話を聞くとそれは当然であると思う。そんな中、当時15才の少女だったフィリピン人の女性に、あるときひとりの弱った日本兵が現れ、彼女は食物を与える。彼は彼女に自分の妻と二人の子どもの写真を見せ、それを日本に送って欲しいと頼む。その写真はごく普通の幸せな家族の写真であった。彼女はその弱りきった兵士とその平和な家族の写真の強い印象を今も忘れられないと述べていた。

結局、レイテ島の戦闘では日米比合わせて10万人もの犠牲者が出た。日本軍は97%にあたる8万人の将兵が戦死という悲惨な結果になった。このようなことに至った原因を考えると、そのような無謀な作戦の背景には、日本の皇国史観を根底とする狂信的な国家(国体)主義思想があり、日本を天皇が現人神である神の国とする国家神道と、それに伴う不敗神話、戦死者を軍神として祀り上げる靖国思想がある。ここから日本国臣民は天皇に象徴される国体のために殉じるのが当然と言うことになる。そこから投降禁止や特攻攻撃などの非人道的な思想が出てくるのだろう。今のイスラム原理主義の自爆テロとも共通している。私も国のため家族のために命を捧げた方々には心から哀悼の意を表する。私もその当時生きていたら同じようにするしかなかっただろう。しかし靖国神社を参拝する人の気持ちは十分理解できるのだが、その動機は貴いがその行為は問題があると思う。靖国神社に祀られる戦死者を含む310万人もの戦争犠牲者をもたらしたのは、まさに靖国神社に象徴される虚構の国家主義システムにほかならないと思うからだ。それが虚構であることは、神風が吹くどころか、2個の原爆をもって戦争に完膚なきまでに敗れたこと、そして天皇の人間宣言で証明されたと思う。靖国神社は戦死者を悼む単なる宗教施設ではなく、国家主義の虚構の名残なのだ。そして戦後63年を経てもその虚構は折あらば亡霊のように頭をもたげてくる。

その中で前述の当時15才の少女だったフィリピン人女性の証言は心を打つ。確かに私たちは巨大な社会のシステムの中に生きているが、私たちの生きる地に足のついた生活の場における、人と人との交わりの中に真実がある。イエスは「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」と言われた。イデオロギーとしての神の国ではなく、私たちの内にある神の国に生きたいものだと思う。

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2008年8月 6日 (水)

放蕩息子の帰郷

放蕩息子の帰郷―父の家に立ち返る物語― Book 放蕩息子の帰郷―父の家に立ち返る物語―

著者:ヘンリ・ナウエン
販売元:あめんどう
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母に勧められてヘンリ・ナウエンの『放蕩息子の帰郷』を読んだ。この本はナウエンがレンブラントの晩年の作品『放蕩息子の帰郷』のポスターを見た話から始まる。その絵にはひざまずく放蕩息子と彼を抱く父とそれを見つめる兄息子とその他の人物が闇の中に浮かび上がるように描かれている。光の画家として有名なレンブラントらしい作品だ。

ナウエンがこの絵に強く惹かれた理由は、この絵の中に登場する人々の姿の中に、福音の本質と私たちの姿が象徴的に現わされているからだ。放蕩息子は放蕩の限りを尽くして我に返り、父の使用人にしてもらおうと父のもとに帰ってくる。父は彼を遠くから見つけ、駆け寄って抱きよせ、使用人にしてくれと言う放蕩息子に、最良の着物を着せ、指輪をはめさせ、履物を履かせ、肥えた子牛を屠らせて祝宴を始める。そこに兄息子が帰ってきて、自分は忠実に父に仕えていたのに子やぎ一匹くれなかった、と父に腹を立てるという聖書の物語を絵にしたものだ。

ナウエンはまず放蕩息子を自分に重ねる。彼はハーバード大学で神学を教えるエリートだったが、名声と競争を離れ、ラルシュという知的障害者施設の牧者となる。彼はカトリックの司祭として長く働いて来たが、挫折や心の痛みに悩まされ、絵の中の放蕩息子に自分を見たのだった。しかしある人から「あなたはむしろ兄息子に似ている」と言われ、突如自分のうちに、品行方正さを保ちつつも、嫉妬、怒りっぽさ、強情、独善があることに気付く。そしてある人から「あなたは父となるように召されていることに気付くべきです」と言われ、『何も問いただすことなく、何の見返りも求めることなく、自分のこどもたちを歓迎して家に迎え入れる父になる』という召命をわたしたちは受けていることを悟る。これは父なる神さまの徳性であり、イエスも、あなたがたも天の父のように完全でありなさい、と求めておられるのだ。

その父なる神についてナウエンは、放蕩息子を兄息子とを比較せず愛する方であることを、マタイ20章のぶどう園の労務者のたとえから説明する。父なる神さまがたとえられているぶどう園の主人は、一日中暑い中働いた者も夕方から少しだけ働いた者も、同じ賃金を支払った。このことからナウエンは「神はご自分に属する人々を、ほんのわずかしか働かなかった人も、多くのことを成し遂げた人と同様に愛される幸福な家の子たちだと見なしておられる」と言う。わたしたち子どもは不公平だと不満に思いがちだが、父なる神さまは違うのである。ここに福音の本質が隠されているようだ。そしてわたしたちもそのように変えられていくのだろう。

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2008年7月21日 (月)

賛美のスタイル

「アロンの姉、女預言者ミリヤムはタンバリンを手に取り、女たちもみなタンバリンを持って、踊りながら彼女について出て来た。ミリヤムは人々に答えて歌った。『主に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた。』」(新改訳出エジプト記15:20-21)

教会生活の中では賛美というものは欠かせないものだが、賛美の中にも伝統的なグレゴリオ聖歌などの教会音楽、賛美歌、聖歌、ワーシップソング、ブラックゴスペル、ゴスペルロック、クリスチャンコンテンポラリーなどの音楽や、ゴスペルサインダンス(手話賛美)、ゴスペルフラ、プレイズダンス、フラッグダンスなど踊りの賛美も種々ある。

最近は多くの教会でワーシップソングが取り入れられるようになったが、まだまだ保守的な教会では、礼拝は賛美歌・聖歌のみというところもある。最近目立つのが中年女性の間で人気が上昇しているゴスペルフラだ。これはハワイの民族舞踊のフラを賛美に取り入れたものだが、元々土着のアニミズム宗教の踊りを換骨奪胎してキリスト教の賛美に180度転換したものだ。

ワーシップソングなどと同様ゴスペルフラも、教会の文化に文脈化する点ではまだまだ摩擦が多いようだ。賛美している本人にとっては、心から神様の愛を伝えているのだが、聴く人見る人によっては、全くの雑音や、異教的なおかしな一人よがりな踊りとしか見えないようで、深刻な問題を発生する危険さえはらんでいる。

特に注意しないといけないと思うのは、賛美の中には主が住まわれるというように、賛美は聖霊のはたらきに係わることなので、人間的な思いで賛美について批判をすると、下手をすると聖霊を汚す罪を犯してしまうおそれがあることだ。ダビデの妻ミカルは亜麻布のエポデをまとって跳んだり跳ねたりしながら主を賛美したダビデをさげすんで、その結果、一生子供が生まれなかった。(Ⅱサムエル6章)ゴスペルフラを批判することも同様の危険があるのではないだろうか。

一方パウロはコリント人への手紙第1の中で偶像にささげた肉を食べることについて次のように述べている。

「そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょうか。その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。」(新改訳Ⅰコリント8:4-13)

つまり偶像にささげた肉を食べることは、偶像が実際にはないものであることを知っている人の場合は罪ではないが、その結果、兄弟をつまずかせることは罪であるということだ。私たちも神様を賛美する音楽や踊りで、兄弟姉妹につまずきを与えたり、結果、聖霊に対する罪を犯させて裁きをまねいたりすることがないように配慮したいものだ。

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2008年5月 5日 (月)

Victory2008

4月29日に岡山県倉敷市真備町のマービーふれあいセンターで行われた賛美集会Victory2008に参加した。12時から恒例のゴスペルジャンボリーにわが笹沖教会も出場した。正直言うと曲がなかなか決まらず2日前の日曜日に1時間ほど合わせただけという状況だったが、信仰を持ってというか開き直って出場した。曲は「御名により集まるとき」でギター1本で伴奏し女声コーラスでしっとりした静かな賛美だった。「御名により集まるとき」をダウンロード

本大会はゴスペル音楽学院を主宰するジョシュア佐々木氏だった。彼は声楽家だが空手家で暴走族の経歴があるという人で、私たちの教会に来ておられる婦人のお父様から洗礼を受けたという不思議な縁があることがわかった。

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教会のお葬式

ゴールデンウイークのさ中、私たちの教会の会員のご高齢の婦人が亡くなり、教会でお葬式を行った。教会での葬式はこれで2回目だったが、私は葬儀委員長として牧師と協力して準備や段取りに追われた。

故人は長く天理教を信心して来られた方だが、娘さんが国際結婚されクリスチャンになったのを契機に、子供やお孫さんが次々にクリスチャンになって、それを追うように教会に来られるようになり、86才で受洗されたのだった。

1週間ほど前に体調をくずし病院に入院されたが、亡くなる前日、牧師が彼女に信仰の確認をしたところはっきりとイエス・キリストへの信仰を告白された。臨終に際しては、同居されていた娘さんと海外から急遽帰国された娘さんと牧師に見守られて安らかに息を引き取られたという。

教会の葬儀は不慣れながらも質素で心のこもった手作りのよいお葬式だったと思う。キリスト教では死は終わりではなく、永遠の安息の始まりである。ご遺族や参列者の方々も平安と慰めに満ちた葬儀によい印象を持たれたようだった。このやすらかさは聖霊の臨在から来るものなのだろう。

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2008年3月15日 (土)

キリスト者の努力

デボーションで第2ペテロを読んでいて、キリスト者の努力ということについての黙想より。

「こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」(新改訳2ペテロ1:5~7)

Jバイブルで「努力」で検索すると7件(ヨナ3:10、ルカ13:24、ヨハネ19:12、ローマ9:16、ピリピ2:16、2ペテロ1:5、ユダ1:3)ヒットし、その一つがこの聖句である。ちなみに「恵み」で検索すると369件も出てくる。キリスト教がいかに恵みに満ちたものであるかを象徴していると言えよう。しかし7件しかないが「努力」ということばも聖書にはあり、中でもキリスト者への努力の勧めが書かれているのは、上記第2ペテロとルカの「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。」の2か所である。そしてペテロがキリスト者に対して努力目標として掲げているのは、福音宣教や伝道や奉仕ではなく、「信仰、徳、 知識、自制、忍耐、兄弟愛、愛」といった霊性に関する項目であることは興味深い。一方、ルカではイエスが努力して「狭い門」から入るように命じておられる。

そのキリスト者の努力すべきことは、よく読んでみると普通私たちがイメージする努力の内容とは少し異なっている。まじめな求道者にありがちなことだが、クリスチャンになると、良いクリスチャンになろうと一生懸命奉仕をしようとして努力し、疲れてしまったり、逆になぜ他の人は熱心でないのかとつぶやいたりする姿を見ることがある。これは実は私たちが長年持ってきた肉の持つ悲しい性質なのだと思う。

ところで私たちキリスト者のこの世での存在目的は何かというと、同じペテロは第1の手紙で「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(新改訳第1ペテロ2:9)と述べており、福音の宣教であることは明らかである。

ではこれらをどう理解すればよいのだろうか。それはおそらくペテロの続くことばに鍵があると思う。

「これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。」(新改訳2ペテロ1:8)

これらの霊性が私たちに備わるなら、実を結ぶ者となる、すなわち福音宣教の使命も主イエス・キリストを知ることによって果たされていくということではないか。逆にそれが備わっていない場合についてペテロは「これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。」(新改訳2ペテロ1:9)と厳しく戒めている。

フランシス・シェーファーが「真に霊的であること」の中で、私たちが積極的な実を結ぶためには、私たちが瞬間瞬間すべての物事に対して死ぬことがまず必要だという。そしてその後初めて私の内に生きておられるよみがえり栄化されたキリストが実を結ばれるのだといい、これを「能動的受動性」と述べているが、私たちが福音宣教の実を結ぶためには、肉の努力で実を結ぼうとするのでもなく、華々しい賜物によるのでもなく、回り道のように見えても、私たちの霊性を変革するようにまず努力すべきだということなのだろう。

ペテロは続く14節では「私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。」と、自分の死が近いことを予期し、いわば遺言のように書いた手紙であり、その冒頭に、信徒たちに最重要なこととして、「ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国にはいる恵みを豊かに加えられるのです。ですから、すでにこれらのことを知っており、現に持っている真理に堅く立っているあなたがたであるとはいえ、私はいつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとするのです。私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。」(1:10~13)と述べて、「信仰、徳、 知識、自制、忍耐、兄弟愛、愛」を備えるよう努力せよと言い残しているものと思われる。

パウロもピリピ人への手紙の中で、自分は熱心なユダヤ教徒として人間的なものを頼みにしていたが、キリストを知った今はそれらはちりあくただと言い、「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」(新改訳ピリピ3:10)とひたむきにそれを得ようと一心に走っているのだと述べている。これもシェーファーのいう能動的受動性を得るための努力であると理解できる。霊性(being)を建て上げるための努力(doingというよりむしろknowing)であり、その結果、伝道や奉仕などの実(doing)が生み出されるということではないかと思う。そして、このことを信徒に思い起こさせ、奮い立たせることが自分のなすべきことであるとペテロは述べている。私たちも教会の中で、相互牧会において目指すべき方向について示された思いがする。

では具体的には私たちはどう努力すればよいのだろうか。1:2~3には「神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。」とあり、「神と私たちの主イエスを知ることによって」、「お召しになった方を私たちが知ったことによって」と述べられており、神とイエスを「知る」ことがすべてを与えるペテロは語っている。

一方、パウロはコロサイ書で「私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。」(1:28~2:2)と「キリストを真に知る」ことを最重要なことと述べ、続く3章で具体的な日常生活における指針が列挙されている。

「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」(新改訳コロサイ人への手紙3:12~23)

このような信仰生活の中で、「あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」(コロサイ3:9)というように私たちの霊性が形造られていくということなのだろう。

そしてこのように私たちの霊性を変革され、福音宣教の力を与えられるのは御霊にほかならない。聖霊に満たされることを求め、その導きに従って歩みたい。

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(新改訳第2コリント3:18 )

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(新改訳使徒の働き1:8)

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